『藝祭2011 復活!夜楽塾』 9/3 13時より 内海先生が出演します

内海先生と木幡和枝氏、御厨貴氏の鼎談があります。ぜひご来場ください。

詳しくは下記をご参照ください。


日時:2011年9月2日(金)、3日(土)、4日(日)
場所:音校5-109 (東京藝術大学内)

3・11を通してわたしたちに投げかけられた問いを受け、芸術とは、社会とは、考えていきます。
3日間に渡り、多彩なゲストをお招きし、シンポジウムを開催します。

<各テーマと開催時間>


" 復活!夜楽塾 Do you hear the people sing?"

ステイトメン


 3.11の震災。間違いなく未曾有の国難である。あらゆる安全神話が崩れ去り、政治は空転を続け、人々は無力感に苛まれている。
 ここにきて私たち芸術に携わる若者が痛感するのは、己の無力さにほかならない。芸術には、果てなき原子力の暴走を止める力はない。傷ついた人々を治療する力はない。田畑や家々を作り直す力もない。そこで必要とされるのは、人間の力であり、技術であり、科学である。想像の賜物、精神性の発露たる芸術は二の次だ。人々は明日の糧を得なければならない。人類に牙を剥いた科学が生み出した脅威に日々さらされ、おびえて暮らさねばならない。そして、震災をきっかけとして跳梁跋扈するようになった、日本人、ないし日本という言葉。それだけが一人歩きし、日本人とは何か、この困難な国に生きる我々とは何物なのか、そして我々はいかにして生きてゆくべきか、そのような問いは全てな おざりにされ、無意味なスローガンによってのみつなぎ止められる奇妙な連帯が我々を覆っている。

 我々は、これから何処へ行くのか。このまま日本は閉塞感に覆われ、少なからぬ人間は日本から逃げ出し、精神の解放手段たる芸術は、お呼びでないまま終わるのだろうか。

 "浮世るねさんす" 本年度藝祭のテーマである。発案者はこの浮世という言葉に、憂世をかけたと言う。そもそも浮世という言葉は、近世にかけて人々の現世観が肯定的なものへと変化したことに伴って、それまで此の世という意味で用いられていた憂世という言葉が、正反対の明るい雰囲気のものへ改められることで成立した。あらゆる祭、華々しい催しが中止する中、藝祭を開催する意義とは何かを、藝祭委員は長い時間をかけて探した。結果として、今こそ、萎縮した我々の意識を解放し、あらたに前を向く機会として、祭は必要であるという結論が下された。そう、閉塞感を打破する手段として、芸術で、美術で、音楽で、思い切り現世の楽しみを現出させたい。それが委員たちの願いであ った。

 しかし、とここで考えるのである。我々未来を作る世代が、非日常を作り出して憂さ晴らしをしているだけでよいものだろうか。やはり、絶好のとは言わないでも、今回の震災は機会である。今までの方法論に自問自答し、これからの日本について、芸術について、真剣に考える機会である。痛みを受けなくては、我々の思考は真剣味に欠ける。

 何故人は芸術に向かうのか、何故言葉を紡ぐのか。日本人とは何か。科学は神か悪魔か。そして、芸術と名のつくものにおいて、あるいはつかぬものにおいて、限界を突破する天才は現れるのか。様々な疑問が去来し、またその問いは普遍である。我々のみならず、多くの若者が疑問を感じている。そして我々は、この疑問そのものをも発信し、新たな光明を見いだしたいと考える。

 我々は、芸術は、何処へ向かうべきか。今回の一連のシンポジウムを通じて、その答えが誰かの胸に、わずかでも芽生えるきっかけを作れれば幸いである。

 我々は芸術に仕える人間として、いかなる状況においても、芸術の可能性を探求する。


■9月2日(金)16:30〜18:30
「"詩"にできること、できないこと」
  宇野邦一(立教大学、映像身体論教授)、木幡和枝(本学先端芸術表現科教授)、佐々木幹郎(詩人)

「"詩"にできること、できないこと」

 今年3月11日の大地震津波、そして9・11同時多発テロや戦争の後に、詩は書けるものなのか。何のために詩うのだろうか。そして誰のために詩うのか。そして、そこに意味はあるのか。――当事者意識と、身体性に基づいた上で、これからの詩の可能性、役割の視点から、なぜ人間は表現するのかまでを包括的に議論する。
 大災害(自然災害や空襲、核の世界の後)の中でも紡ぎ続けずにはいられない詩の、人間の、謎に迫る。人類は言葉の前に詩を持った。言葉の前にあったもの、それは慟哭か、歓喜の叫びか、どこよりか生まれ出ずる共感の素地を探究する場を企図する。



■9月3日(土)13:00〜15:00
「人間と技術 〜聖・マリア・大聖堂から広島ドーム、そしてフクシマダイイチへ〜」
  内海信彦(画家)、木幡和枝(本学先端芸術表現科教授)、御厨貴東京大学先端研教授、東日本復興構想会議議長代理)


「人間と技術」
  今回の震災で、地震津波以上に人々を震撼させ、今なお不安要素を多く抱えるのが、福島第一原子力発電所である。今になって、我々人間は己が手で作り出したものの強大さに悩まされている。そして、技術の、科学の二面性すなわち、人類に利をもたらせば害をももたらすという、手垢にまみれた議論が再燃している。

 人間の歴史は技術の発展とともにあった。プロメテウスが火をもたらしたその時から、人類の飽くなき発展は始まった。技術はありとあらゆる奇跡を生み出した。藝術の世界とて例外ではない。フィレンツェにそびえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ。ブルネレスキによる新式のドーム構造なくして完成し得なかった、偉大な建築遺産である。

 無論技術は、負の方向にも暴走し得る。しかしそれは、人間が暴走し得るからである。藝術のために用いられた技術と、エネルギーのために用いられた技術と、はたまた殺人行為のために用いられた技術は、いったい何が違うというのか。すべては伝家の宝刀を振るう我々人間の手にかかっているのである。今回の震災は、その振るい方を改めて考えさせる。
 藝術と技術は切っても切れない。それは単に技法や表現手段の変遷という事に留まらず、技術によって変化する人間社会にいかに我々が向き合ったかを知る手段でもある。今や神の領域にまで踏み込もうとしている技術に、藝術はどう対応するべきか。藝術は技術の道しるべたり得るのか。暴走する人間を押しとどめる力を、藝術は持つのか。単なる技術の功罪をあげつらうだけの議論に留まらない、包括的な意見交換を期待する。

 このシンポジウムでは、これからの人間の理性と技術の付き合い、そして藝術はそれにどういったかたちでコミットしていけるのかを考える。

■9月3日(土)14:00〜14:45(ステージプレイベント)、16:00〜18:30(シンポジウム)


「東京、art、アイデンティティ」  


 artという単語が「芸術」と翻訳され、日本語に取り入れられてから、百数十年余り。その間、日本社会においてこの語はどのように咀嚼され、受容されてきたのだろうか。
 artを表現活動のひとつととらえた時、artと一個人のアイデンティティとは密接な結びつきを持ってきた。たとえば、伝統文化を継承することはアイデンティティを形成していくこととよく結びついてきたし、ロック音楽は多く、社会の不条理に抵抗しながら自己のアイデンティティを確立しようとする若者に光明を与えてきた。このように、アイデンティティをよりべに表現が成り立ってきた部分は大きく、またその逆も然りである。
 しかしながら、現代日本社会はしばしば「アイデンティティ不在の世界」と形容される。そのような社会において、artという存在は、何なのだろう。そして、本当にアイデンティティは「不在」なのか。

                                        • -

 3月11日の大地震を通してわたしたちに見えてきたもの、わたしたちが突きつけられたもの、その中にはアイデンティティの問題もある。あの日以来聞くことが多くなった「日本」「日本人」という単語。安易とも思われる程頻繁に口に出されるようになったその言葉と、発話する行為は一体何を包含しているのか。
 また、3・11は芸術と社会との関係性について考えることを表現者たちに余儀なくさせた出来事でもあった。芸術は社会に対して何ができるのか、そしてできないのか。

                                        • -

 それぞれに様々な背景を持つ芸術を学ぶ学生が東京に集い、第一線で活動する芸術家を招き、語り合う。
 本企画は、日本に生きる表現者たちの対話を通して、アイデンティティとは、現代日本でartと取り組むこととは、そしてアイデンティティと表現の未来とは、を探って行こうとする試みである。

・プレイベント(美校ステージ) 14:30〜15:15
   沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻の学生と東京藝術大学の学生のコラボレーション公演です。
・シンポジウム 16:00〜18:30 司会 藤崎圭一郎(本学デザイン科准教授)
第1部「東京、art、アイデンティティ

沖縄県立芸術大学学生、本学学生


第2部「社会と芸術」ゲスト 岩井俊二(映画監督)、本学学生

■9月4日(日)16:30〜18:30
  「最期のバーサーカー会 〜藝大からダヴィンチは生まれるか?〜」
   大谷能生(音楽家)、熊倉純子(本学音楽環境創造科教授)、木幡和枝(本学先端芸術表現科教授)、茂木健一郎脳科学者)


「天才論」

 日本が閉塞感に覆われているといわれて久しい。高度経済成長、バブルはもはや過去の遺物であり、そこに今回の震災である。今日の日本は、否、世界は、無計画に急成長してきたツケを払わんと苦闘する日々である。いつの時代も、苦境に陥る時、人が期待するのはその状況を打開する人間の出現である。我々が縛られているもの、苦しめられているものを軽々と飛び越え、あるいは利用してしまったりする。私たちと同じ世界に生きながら、はるか高みに遊ぶ人間を、我々は天才と呼ぶ。

 歴史を作りかえる、あらゆる分野に革命をもたらす天才とは、いったい何であろうか。この天才論は、震災で改めて問われた藝術の役割とは厳密な関連性を持たないかもしれない。しかし、私たちは期待している。我らが藝大は、言うまでもなく全国から幾多の才能が集う場所である。その藝大においてさえ、我々を覆う閉塞感は例外ではない。高みに達したいと苦闘しつつ、到底敵わないと感服する才能を探してもいる。天才を生む土壌とは何か。この藝大から、真の天才は生まれるのか。

 今回のシンポジウムにおいては、これまで歴史上で天才の名を欲しいままにしてきた、アカデミックな舞台で脚光を浴びる天才とは違った、劣悪な環境から生まれる天才などにも光を当てたい。あらゆる角度から天才と言う存在を定義し直し、天才の生まれる所としての藝大の可能性を考える。そして、人間の知が至るひとつの究極形としての天才を考察することから、人間そのものの可能性も追求してゆきたいと考える。




<出演者>(出演順、敬称略)

宇野邦一/木幡和枝/佐々木幹郎/内海信彦/御厨貴岩井俊二/藤崎圭一郎/大谷能生/熊倉純子/茂木健一郎